Forgive―摂理で学ぶ<許し>と<与える>こと

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摂理の御言葉を聞いて、顕(あらわ)になったのは、自分の「罪」のように思います。

それまでは、自分の「罪」が何なのか分からなかったし、分かっても部分的でした。
「罪」とは簡単に言えば、神様から見て善しとしないこと。
それは大なれ小なれ、すべて「罪」です。

人間が考えた「法」と違って、人間として、何をやっていいのか、何をやっていけないのか、また何を考えることが良くて、何を考えることがいけないのか、
御言葉は、その基準がとてもハッキリとしているから、「ダメ」なことにひっかかると、自分の(隠れていた)「罪」が顕になるしかありません。

この御言葉のふるいにかけるなら、「罪」を犯していない人間はほぼ皆無と言っても良いことになるでしょう。
聖書が「人間には罪がある」という前提で進んでいるのも、このような理由があるからです。
なかなか日本人には受け入れがたい感覚かもしれませんが。

そして御言葉を基準に、自分の人生を振り返ってみると、大なり小なりあまりにも多くの「罪」を犯してきたことに改めて気づかされます。
御言葉を知らずそのまま生活をしていたら、それが「罪」だとも思わずに、むしろ時に「良いこと」だと認識して、過ごしてきたことでしょう。

ふさわしくない「考え」も「罪」になってしまうのだから、人間の考える「罪」と、神様の考える「罪」とが、いかに次元が異なるかが、御言葉を学ぶと分かるかと思います。

でも、神様は、そうした「罪」を咎めることも責め立てることもなく、むしろ神様が願われる「正しい道」を歩むことができるよう、「許し」を与えて下さいました。

「やってはいけない」ことが分からず、ただ本能のまま、気持ちの赴くままに進むことで、「事故」を起こしそうになる子供を、ヒヤヒヤ見守る親のように、神様もきっとそのように自分の人生を見て下さり、御言葉という「法」も知らないから、間違った方向に行かないように、ひたすら良心に働きかけて下さったのだろうなと。

許せば生きる。
<主が許してくれたこと>を忘れたら死ぬ。

(2015年2月7日 摂理・鄭明析牧師の御言葉)

「許す」 の反対語は 「罰する」「責める」です。

もし、そこで神様が責め立てたり見捨ててしまったら、私は摂理の御言葉に出会うこともなかったでしょう。
罰したり、責め立てたりしないことが、「許し」につながることなのだと考えさせられます。

2000年前、イエス様も、どれだけ自分が酷い仕打ちにあおうとも、罰することなく、責め立てることもなく、ただ「敵」となる人々を許し、愛しました。

わたしは言っておく。敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい。
あなたがたの天の父の子となるためである。父は悪人にも善人にも太陽を昇らせ、正しい者にも正しくない者にも雨を降らせてくださるからである。

(新約聖書・マタイによる福音書5章43節)

そして、彼らが自分たちの良心に従って「罪」に気づき、悔い改めて、御言葉に聞き従って「完全な生」を生きることができるように、最後まで祈りました。

父よ、彼らをお許し下さい。彼らは何をしているのか、わからずにいるのです。
(新約聖書・ルカによる福音書23章34節)

ここで、もしイエス様が、責め立てたり、罰してしまったら、御言葉を聞く「門」は閉ざされるばかりではなく、憎しみが、さらなる憎しみを生むことになってしまいます。

「許し」は、英語では’Forgive’。
「与える」ことでもあるのです。

一体、何を与えるのか?

高校生の時にずっと疑問だったこの問いですが、

<御言葉>
ではないかと、摂理に来た今は、思うのです。

初めにことばがあった。ことばは神と共にあった。ことばは神であった。(…) このことばに命があった。そしてこの命は人の光であった。光はやみの中に輝いている。そして、やみはこれに勝たなかった。
(新約聖書・ヨハネによる福音書 1章1節~5節)

人間の、生きる指針となる御言葉。
どのようにしたら「善」で生きられるのかを、教えてくれる御言葉。
この御言葉を聞く余地を「与える」ことが、最高の「許し」ではないかと感じます。

許しだ。そうしてこそ生きる。問いただすな。どんな罪でも「許し」だ。
許さずに続けて「罪」に縛っておけば、罪を犯した人が時になって心を入れかえて出てこようとしても出てこられない。
<罪の最終決定>は神様と御子がなさる。だから神様と御子が許せば、すべて「許し」だ。みんな「神様と御子の決定」に従ってそうしなさい。

(2015年2月5日 摂理・鄭明析牧師の御言葉)

だからこのように思うのです。
神様が、自分を許してくださったから、自分が人を責め立てたり罰したりする権限は、どこにもないなと。
神様が自分を許して下さったように、自分も人を許さなければいけないのだなと。

ただ神様、聖霊様、御子だけが「公義の裁判」をなさる。
<自分の悪感情による裁判>は「公義の裁判」になれない。

(2015年2月6日 摂理・鄭明析牧師の御言葉)

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今の時代を生きるヒントは、まさにこの「許し」にあるのではないかと感じる、今日この頃です。

ABOUTこの記事をかいた人

キリスト教福音宣教会のブロガー。社会人で教会に通うようになり、日常を記録したい思いからブログをはじめました。絵と写真が好き。趣味は水泳&インテリア。名古屋・主の栄光教会所属。