信仰は「育てる」もの

IMG_5493摂理

信仰というと何だか急に自分が変化するイメージがあるかもしれません。

摂理にくる前、わたしも少なからず「信仰をもつと何かが変わるんだろうか?」と少しの期待と少しの不安が入り交じった心境だったのを思い出します(笑)

しかし

聖書を読んで、教会に通って、はい今日からあなたも立派な神の信仰人です!

・・・なんて急に「白」が「黒」になるようなことはありませんでした。

いや、わからないことだらけだし。

信仰は一夜にして急にもてるものでもなく、礼拝に出たらそこで終わりというものでもなく、むしろ「育てる」ものだと摂理の御言葉では伝えられます。

<人間>も育てなければなりません。<遺伝子自体>では何もできません。育てて「人間」につくらなければなりません。

<赤ん坊>も育てなければなりません。育てなければ弱くて何もできません。大きくなったら美しく神秘的で雄大になり、愛もできるし、それによって多くの働きもできます。

これと同じく<信仰>も育てなければなりません。

「信仰をもつ」というのは、厳密には「信仰の種をもつ」といったほうが正しい気がします。

信仰という「種」を「育てる」には「肥料」が必要となりますが、その「肥料」となるのが「御言葉」。
この御言葉を聞いて、生活の中で実践をすることで、信仰が「成長」します。

信仰をもったからといって、その日から急に牧師になれるわけではないと考えたら分かりやすいでしょうか。
信仰も、育てる過程が必要なのです。

成長してこそ、神のようになって永遠に享受する。
成長することが祝福であり、幸せだ。

成熟するにはそれなりの時間はかかりますし、自分もまだまだ成長の過程です。

けれども、そんなふうに自分を育ててゆける場所、それを神様と行なえる場所が、摂理の世界なのです。

2016年2月21日 摂理の主日の御言葉より

ABOUTこの記事をかいた人

キリスト教福音宣教会のブロガー。社会人で教会に通うようになり、日常を記録したい思いからブログをはじめました。絵と写真が好き。趣味は水泳&インテリア。名古屋・主の栄光教会所属。