松の木と管理の話

摂理の聖地・ウォルミョンドンに行った男性メンバー数人が、主日礼拝後に滞在中の話をしてくれました。

岩を積む作業をしたり、
松の木の手入れをしたり、
独立記念館にも訪れたと(^o^)

その中で印象に残ったのが、
松の木の不要な枝を切る作業の話。

「ウォルミョンドンの松の木はすべて手入れをされているのかと思ったけど、実は違っていた。中心地から外れたところに生えている松の木はなかなか手が行き届いていなかった。そのような松の木を手入れして、摂理の中でも、摂理にはいるけれど目が行き届いていない人がいるのではないかと感じた。」

この言葉がとても印象的でした。

確かに、私たちはつい中心にあるものばかりを見てしまいがちですが、そうでないもののほうが圧倒的に多いです。
月明洞も、摂理も、またこの世の中も「全体」をみてこそ、皆で「地上天国」を成すことができます。

管理も部分的にはみんなしている。
<部分的に分かる人>は「畑に隠されている宝」を見つけられない。
何をつかむにしても、「部分的」につかんだら、「完全につかんだこと」にならない。

御言葉では、みんないつも神様の影響圏の中にいるようにと伝えられます。

視野を広くして、人も物事も見る力を培いたいですね。

 

2017年3月1日 摂理・箴言の御言葉

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キリスト教福音宣教会のブロガー。社会人で教会に通うようになり、日常を記録したい思いからブログをはじめました。絵と写真が好き。趣味は水泳&インテリア。名古屋・主の栄光教会所属。