摂理で考える、社会の「罪」の問題

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私たちが住む世の中では、大なり小なり、毎日、胸の痛くなるようなニュースばかりです。
鄭明析先生も、個人、摂理のことから世界情勢のことまで、毎日、祈っていらっしゃるそうです。

人が社会で何か事件を起こすとき、私たちはそれを「罪」とみなします。
(「罪」についてはまた詳しく述べようかと思いますが、ここでは一般的に言われる「罪」のイメージでお考え頂ければ大丈夫かと思います)

罪を犯すことで、悲しむ人が出てきたり、社会が損害を被ったり、問題が問題を生んでしまったり・・罪の問題は、一人では決して完結することがない複雑さを抱えています。

最近、先生は歯が痛くなったという話を聞きました。
鎮痛剤でも治まらなかったのですが、摂理で財政問題を起こした信徒が思い出され(こういう人がいるものです…)、その信徒の罪を悔い改めたら、治ったそうです。

歯は抜かないで治療しなさい。
そのように、罪を犯した人は、悔い改めさせて、回復するようにさせなさい。
(2014年4月2日 摂理・鄭明析牧師の御言葉)

罪があるからといって、やたらむやみに抜く、つまり追い出すのではなく、段階的に治療し治すこと。
先生は、どれだけ人に裏切られ、今も尚、このような事件が起こる中でも、その信徒のために祈ります。

私は、こんなふうに祈ることができるかなぁ・・・?

「罪」や「悔い改め」に関しては、また追って書いてゆけたらいいなと思います。

人間が定める「罪」と「対処法」、神様が定める「罪」と「対処法」、同じなのか、異なるのかも書いてゆけたら。

Sol

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キリスト教福音宣教会(通称:摂理)のブロガー。普段は総合職で海外とつながるお仕事。女性の社会進出に興味有。漫画を描いたり写真を撮ったり泳いだり、多趣味極まりない感じで、色んなものが飛び出します。