摂理に来たから悟る、家族・親戚の愛

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先日、家族と親戚の何人かが集まって、琵琶湖まで旅行に行きました。

総勢8名で旅行に行くなんて、何年かぶりだったので、何だか新鮮な気持ちでした。
親戚は、家族で商店を営んでおり、Sol家はいつも野菜や物資を送ってもらい、助けてもらっています。

今回の旅行も、今年88歳(!)を迎える祖母の提案から始まりました。
しょっぱなから1時間以上遅刻するSol家を、あきれ顔をしつつも「いつものことか」と暖かく迎え入れてくれ、「一度行ってとても良かったから」と、琵琶湖が一望できる部屋を予約してくれていました。

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ディナーもフルコースで・・
会社へのお土産も持たせてくれ、
翌朝も、朝食後にケーキセット、
近江八幡を観光して、
ランチもとってもおいしくて、

「こんなにしてくれなくてもいいのに」
「何でこんなにしてくれるのだろう?」

と、惜しみなく与えてくれる祖母と親戚の姿に、いつにも増して、見返りを望まない、とても深い愛を感じました。

帰りも「お米や野菜をもっていきなさい」と車に積んでくれて、弟が車で家まで送り届けてくれ、不覚にも別れ際にふと寂しくなってしまいました。

こんなことは、最近ほとんどなかったので、自分で驚き。
本当に、自分は恵まれた環境で育ったのだなぁと。

神様も、このように人間に働きかけて下さっているのでしょう。
「もういいです」と言っても、愛するから、与えたくて仕方がない。
ただ、与えることが喜び。
でも人間は、与えられることに慣れすぎてしまっているのかもしれません。

Solも今回、こんなことを考えてしまうのは、これまでも沢山与えられているはずなのに、それが当たり前になってしまっていて、その愛に気づいていなかったのだと考えさせられました。

表面的に見れば、ただ「おいしかった、楽しかった」と「肉的」に満たされて終わってしまう旅行。
けれどもその奥にある、人を通して働く神様の愛や心情を感じること、つまり「霊的に満たされる」感覚があってこそ、一層感謝も深まり、はじめて真実な充足感を得られることに改めて気づかされました。(肉のものと霊のものの接ぎ木ですね)

そうでなければ、物質面だけでの満足だから、どこか虚しさや物足りなさが残り、強いては「もっともっと」と「欲」が生まれるのでしょう。

***

ところで親戚には、摂理の話はしていません。
摂理に来てほしい思いはもちろんありますが、やはりなかなか難しいのが現状です。
けれども、こんな御言葉があります。

摂理史で時代の主を迎え、主のためにすべての人生をささげ、摂理史のため、この歴史のため、時代の主のために生きてきたすべての条件は、あなたたちの家族にも伝達される。

摂理人の家族や親戚は、死後、善霊界というところで、臨時に御言葉を学ぶ機会が与えられるそうです(天国ではない!)。
しかし時になれば、天国と地獄の2つの道にはっきりと分かれるそう。

霊界での状況を祈ってあげなさいと、鄭明析先生はおっしゃいます。

また、自分が摂理の御言葉に出会えるかどうかのカギは、先祖の「義」。
決して商売上手ではなかったけれども、人柄がとても良く、嘘や不正を行なわず、真面目に代々商店を営んできたSolの家系も、その姿勢が神様の目にかなったのかなと。
いわゆる「いい人」ばかりです(笑)

Solがこうして生きていられるのも、先祖の義があってこそ。
ここまで育ててくれて、神様の愛を悟らせてくれた家族と親戚に、心からの感謝をもって。

Sol

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キリスト教福音宣教会(通称:摂理)のブロガー。普段は総合職で海外とつながるお仕事。女性の社会進出に興味有。漫画を描いたり写真を撮ったり泳いだり、多趣味極まりない感じで、色んなものが飛び出します。