
今年の2月頃だったでしょうか。
Solは免許の更新に行きました。
何もペナルティを犯さなければ、すぐに終わる免許の更新。
しかし、恥ずかしながら、以前「一時停止無視」という「罪」を犯してしまったため、約2時間、いかにルールを守らず車を運転することが恐ろしいかを、長々と聞くハメになりました。
最初は「何て面倒な。私の時間をこんなことに費やすとは・・」と、気乗りでなかったのですが(罪を犯したのにエラそう)、教習所での次の言葉がとても印象に残りました。
車は鉄の塊にすぎない。
どのように操縦するか、ドライバーの心が重要だ。
なるほど、まさに。
これって、「肉体」という「車」をどう操縦するか、人生につながる真理だなと。
わき見運転や、ささいなことが致命的な事故につながる。
「大丈夫」と思うその油断した心が事故を招く。
いつも緊張していなければならない。
一度事故にあって損傷を受けたら、回復に時間がかかる、もしくは回復しないこともある。
そして、時には死を招く。
安全な操縦のために、運転マニュアルがある。
「行き先」という「目的」がある。
「道」という人生。
「車」という肉体。
「エンジン」という心・考え。
「マニュアル」という目的地に行くために必要な御言葉。
このように考えると、非常に分かりやすいです。
行き先は、もちろん「天国」。
そのためにやっていいこと、悪いことは、御言葉がちゃんと教えてくれます。
車を運転する人が「道路交通法」について学ぶことは、<知識と学問>を学ぶことだとしたら、「運転する方法」を学ぶことは<人生>を学ぶことと同じだ。
(2014年5月21日 摂理・鄭明析牧師の御言葉)
そして、忘れてはいけないのは、操縦者は、
自分勝手に操縦してはいけないということ。
3つのハンドルがある車のハンドルを御子が操縦しているとしよう。
自分は操縦してはいけない。
(2014年5月29日 摂理・鄭明析牧師の御言葉)
ナビは、助手席に乗っている神様に任せたらよくて、自分は、ただ言われた通りに(つまり御言葉に従って)アクセルを踏めば良いのです。
自分がナビをしたら事故ります。
運転することに、集中したらいいのです。
そんなわけで、「罪」を霊肉共に起こさぬよう、気をつけたいと思います・・・。
Sol