「平和」の前提となるもの―広島大学の平和学から考える摂理の御言葉

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広島大学には、平和科学研究センターというものがあるそうです。

戦後の昭和50年、日本初の平和学の学術的研究機関として発足し、国立大学でも現在唯一の研究機関として、平和科学に関する研究・調査と資料の収集を行なっているのだとか。

「平和学(Peace Studies)」

日本では、あまりメジャーではないですが、世界的には学位のとれる大学も結構あるようです。

「平和学」そのものについて深く学んだことはありませんが、「戦争や紛争がない状態」を「平和」と定義するならば、それは「平和学」の目指す終着地とも言えそうです。

けれどもこの目的地に向かう過程の中で、たいてい受ける批判は、「理想主義」だということ。
「平和のためには○○が必要なんだ」と、いくら論理立てて説明をしても、結局は「個人」の話に帰結してしまうから、最後は「でもね」で終わってしまう「平和」の話。

彼らの論理はこうです。

①「戦争(争い)は人間の性であるから止められない」
          ↓
②「(だから)お互い軍事力を持つことによって、戦争(争い)の抑止力が働く」
          ↓
③「平和のための核保有が必要だ」

・・・ん?

人間は、争うことが、大前提ということ?
それって人間の「真理」???

御言葉では、このように言われます。

「争う条件」がなければ「争うこと」もない。
サタンや悪霊や悪人たちは、私たちが<悪の主管圏>にいるとき、言いがかりをつけ、喧嘩をしかける。
<自分の主管圏>は「自分の地」で、「自分の生の地域」なので、戦い争う人がいない。
<神様と聖霊様と御子の命の主管圏>は三位の世界なので、争い戦う人がいない。
誰でも自分が心を100パーセント主の御心通りに決心する人は、最高に主管できる人だ。
自分がどう生きるかによって、自分が自分に「生の希望」を与えたり、与えられなかったりする。
自分が自分の心と行ないを主管することが本当に難しい。世の中で一番易しいことでありながら一番難しいことだ。
愚かな人は「垢」を「肉」だと思って生きるように、「罪」を「生活」だと思って生きる。

(2014年8月7日 & 2011年11月2日 摂理・鄭明析牧師の御言葉)

摂理の御言葉を、平和学的な視点で捉えるならば、まず根底から覆されてしまいます。

摂理では、まず御言葉によって自分を「神」のように「完全」につくることが求められるから、②③の理論は成り立たなくなるのです。
「理想主義」と言われる所以は、ここに起因するのかもしれませんね。
けれどもそれって、不可能なことでしょうか?

来年で原爆投下70年目。
広島を思いながら、平和の根底について考えてみるのでした。

Sol

写真提供:広島の摂理の農業人やすさん/span>

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貿易の仕事をしながら摂理の教会に通っています。スイマー・おしゃれ信仰生活推進委員。今ハマってるものはインテリア。インターネットが好きです。