執念の信仰生活

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何で自分はこんなことを考えてしまうのだろう?
何で自分はこんなことをしてしまうのだろう?
何で自分はこんなこともできないのだろう?

生活の中のささいなことで、自暴自棄になってしまう人は少なくないハズ。
それはSolも同様です(*_*)

御言葉が求めること=神様が求めることに応えたい…!
その思いがどれだけあっても、なかなかついてゆくことが出来ないのが、肉体。

特に、明け方のお祈りとかね。(鄭明析先生はいつも祈ってらっしゃるそう…)
しかしそんなもどかしい思いに喝を入れるのがこの御言葉。

<人生の運転を上手にする方法>は、「義」の前では<考えのスイッチ>を強く押して行ない、「不義」の前では強く節制して<考えのスイッチ>を押さないことだ。
(2015年2月10日 摂理・鄭明析牧師の御言葉)

「自分にはできない」という「不義」な思いは、完全に切ること。
そちらに「考え」が流れそうになったら、直ちに切って節制すること。
「やる」と強く決心して、命をかけて行なうこと。

執念が大切です。

主日に女性牧師さんがおっしゃってました。

自分がやりたい思いがあるのに、明らかにやるべきことなのに、やれば出来るのに、出来ないことがあるなら、詰まるところ「執念が足らん」ということになるでしょうか(*_*)

<同じ時間>をもって、考えが「義」に没頭したら「義なる考えと行動」をし、考えが「不義」に没頭したら「不義なる考えと行動」をする。
(2015年2月9日 摂理・鄭明析牧師の御言葉)

不要な考えや行ないは一切を捨てて、ただ己の精神を練達するのみ。

たまに摂理がベンチャー企業のように見えることがあります。

Sol

ABOUTこの記事をかいた人

キリスト教福音宣教会のブロガー。社会人で教会に通うようになり、日常を記録したい思いからブログをはじめました。絵と写真が好き。趣味は水泳&インテリア。名古屋・主の栄光教会所属。