新聞は、タダじゃ読まない

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先日、風邪をひいていたこともあり、1週間分新聞が溜まってしまいました。
もう過ぎ去ったことだし、ネットでも簡単に見たニュースだから、時間もかかるし捨てようかなと思ったんです。

でも、読みました。
お金を払っているから。

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もし、この新聞が無料(タダ)だったら、捨てている可能性がとても高いんです。
すぐに捨てないにしても、かなり荒く、細かなことはスルーして読んで終わったでしょう。

「どうせタダだから」

「また配達されるし」

扱いが、お金を払ったときよりも雑になるんですね。

内容は有料のときと同じでも、タダであることによって、自分の読むモチベーションも(雑な方に)変化するし、そのことによって、新聞が本来伝えたい価値というのも、自分が対価を払わないことによって伝わらなくなってしまうのです。

事実、私はじっくり読んだことによって、自分に必要な情報をインプットすることができました。

500円だったら、もったいないのでもっとしっかり読むはずです。

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もう何が言いたいか分かるかもしれませんが、このように(自分にとっての)モノの価値って、それ自体で決まるというよりは、自分が対価を払うかどうかで大きく左右されるということです。

姿勢ひとつで、その人が得る情報の質、体験の質が変わるとも言い換えられます。

お金という対価を払えば、自分も対象となるものから何かを得ようと向き合うし、払わなければ、もらえて「当たり前」のものとして、その価値を見過ごす可能性がとても高いということです。

この対価は、お金に限らず、「努力」とか「労苦」に置き換えても良いでしょう。

だから、売る側にしても「安売り」してはいけないし、むやみに「タダ」であげてはいけないのはこの理由からです。
対価が払われることによって、売る側に「しっかりしたものを売ろう」というモチベーションにもつながるから、お互いが気持ちが良いですよね。

お金って、本来そのように使われるべき力があると思うのです。

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信仰の世界も、きっと「これと同じくこう」。

タダで御言葉を聞いていたり、対価を払っていたとしても自分が1,000円持っているのに10円分の対価しか払ってないのだとしたら、上記の流れでいくならば、得られるものは絶対的に得られません。

本来の価値も、分かるはずがありません。

<自分が労苦して作ったもの>の中から出てきたものは「ただ」ではないように、神様が労苦して天地万物と人間を創造なさり、働きかけてくださるので、その中から得られるものはすべてただではありません。

道を行く途中「ただ」で何かを拾ったことがどれくらいありますか?ほとんどありません。
だから「ただ」ばかり望んで生きたら、「得るもの」がありません。

だから「ただ」を望むより、条件‐対価で「行なわ」なければなりません。
自分が労苦して作って行なって、期待以上に得ればいいです。そうすれば「ただで得ること以上の喜び」が来ます。

万事全てがそうだし、信仰の世界においてもそうです。

(。・ω・)ノ゙

対価なしにタダでもらうことは、そのモノの価値を自分が下げることになり、自分が得るべきものが得られなくなってしまうのです。
もちろんタダは嬉しいことですが、ずっとその状況が続いたら、人間怠慢になるのは目に見えてますよね。

だからケチケチせずに、相応以上の対価を万事において支払いたいものです。
そしたらおまけのひとつももらえるでしょう。

行ないつつ、自分が行なったことの上に「おまけ」でもっともらうのです。

そんなことを、新聞を読みながら感じました。

引用:2016年1月17日 主日の御言葉「自ら行なう人は大変ではない」より

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キリスト教福音宣教会(通称:摂理)のブロガー。普段は総合職で海外とつながるお仕事。女性の社会進出に興味有。漫画を描いたり写真を撮ったり泳いだり、多趣味極まりない感じで、色んなものが飛び出します。