「使命」は愛があってこそできる

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生きている限り、
それぞれが人生の「使命」と呼べるようなことが必ずあると思うのですが、
最近、摂理の鄭明析(チョンミョンソク)先生のご兄弟でいらっしゃるポンソク牧師が「使命」についてこのようにおっしゃっていました。

使命を使命としてやってはいけない。
使命には限界がある。
愛でやらなければならない。
愛は苦痛を背負うことができるから。

いくら好きなことだとしても、向いてることだとしても、大なり小なり「使命」には労苦が伴います。
その労苦に負荷がかかってしまったとき、陥りがちになるのが、私が思うに、単なる「労働」としての「使命」。

いつのまにか「使命」をこなすことが目的になってしまって、そうなるとそれ以上先の次元には絶対に進めません。
でも人から見たら「使命」だから、最悪、その「使命」の肩書きが「実力」だと勘違いして生きていくようになってしまいます。
「使命」が大きければ大きいほど、発展がない人にポジションを任せているようなものなので、事態は深刻になります。

だから「労働」ではなく、100%「言われなくても自ら好きで行なう」というで行なわなければいけないんですね。

自分も一歩間違えたらその危険と隣り合わせだなと思って、このブログも「ルーティン」や「仕事」になったと瞬間感じたら一旦手を置いて、本当に書きたい・表現したいと思えるまで待つようにしたりしています。

「使命」だからとか
誰かに言われたからとか
毎日書かなきゃとか

そういうモチベーションだと続かないし、自分がつまらないし、読んでる人にも無理してることがすぐ分かると思うんです。

最近「労働」について色々考えることが多くて、
このブログでも色々書いてゆこうと思います( ・ω・)ノ

 

…しかし、この記事を書きながら会社の役員さんらが頭をチラついて仕方がないのは、どうしたものか。。

ABOUTこの記事をかいた人

貿易の仕事をしながら摂理の教会に通っています。スイマー・おしゃれ信仰生活推進委員。今ハマってるものはインテリア。インターネットが好きです。