何が「よかった」「感動した」のかを言えるように

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作家の万城目学(まきめまなぶ)さんが、
新聞のインタビューでこんなことを言っていました。

本を読んでいる人といない人で一番違うのは、映画を見た後の感想。
「ドドドーッときて、CGバーッって感じですごかった」
みたいな擬音語、擬態語で説明する人は本を読まない。
見た感じの視覚と聴覚だけ。
そして、「どうやった?」と聞くと「微妙やった」と言う。
どこを微妙に思うかにその人の個性や発見があるのに、自分の感情を説明できないと味わうこともできない。
(2016年7月14日 毎日新聞)

厳しいけどアーメン(そのとおり)なお言葉( ・ω・)ノ

最近の「やばい」も同じことだといいます。
どのレベルの感動を得たのか分からないし
「やばい」で終わらせると、会話はなかったも同然とのこと。

コレ、前々から私もすごく感じていました。

「すごかった」とか「恵みだった」とか「やばかった」とか、
何かしら感動したことは伝わってくるのですが
何がどうすごくて、恵みだったのか、思考や感情をうまく言語化できず、具体性が欠けていると、聞いてる側はイメージし辛い…。
感想で、個性=その人がぬけるんですね。

これって、結構国にとって危機的な状況だと思うんです。
言語化できない=相手にもそれを求めなくなるから、雰囲気に流されるようになるし、うまく説明できないと誤解を招くことにもなってしまう。

摂理の鄭明析(チョンミョンソク)先生も、
「説明しなさい」とよくおっしゃいますが、こういうことだと思うんです。

自分の人生を見ても、根本を正しく説明ができなければ、自分の人生の長所、短所を見つけられず、長所を生かすことができず、短所を直せない。

もちろん言語化できることがすべてではないし、
うまく思考を言語化できないことにこそ、本質が宿っていることもあります。
私の大学時代は、その連続でした。

でも身近なことや生活に関するたいていのことは、少し考えるだけで言語化できるもの。
考えたら誰でもできるようになるのだと思います。

摂理を説明するときも

漠然と「自分の人生を変えた!」「御言葉がすごい!」と言うよりは
何がどうすごくて人生を変えたのか?というところをつっこんで

説明してゆきたいものです( ・ω・)ノ

 

2013年10月19日 摂理の明け方の箴言

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キリスト教福音宣教会(通称:摂理)のブロガー。普段は総合職で海外とつながるお仕事。女性の社会進出に興味有。漫画を描いたり写真を撮ったり泳いだり、多趣味極まりない感じで、色んなものが飛び出します。