「自分が願うこと」ではなく「必要とされること」

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大学時代、学生起業家の友人がいました。

起業家といっても、ガツガツお金のためにやるとかそういうのではなく、地元で廃棄になった海苔網(海苔の養殖に使う網)をリサイクルしてインターネットで販売するという、ニッチでエコなビジネスをしている友人でした。

今で言う「社会起業家」ですね。

彼とは色々話をしたのですが、今でもたまに思い出す言葉があります。

「(起業のポイントは)自分がこれをしたいというよりは、まわりに必要とされることをすること。起業をしたいという人は多いけれど、まずはまわりをよくみて。」

続けてこのように言っていました。

「(自分は)世の中に必要とされることができればそれでいい。必要とされるならどこでも行くし、何でもやる。」

そう言って、卒業と同時にさらっと海苔網事業は人にゆずり、勤めた外資系コンサルも1年足らずで辞め、今では「ソーシャルビジネス」の最前線で世界各国を飛び回っています。

この「必要とされれば(つべこべ言わず)何でもやる」という精神を学んだのは、彼からかもしれない。

摂理で、こんな御言葉があります。

(神様は)小さいことでも大きいことでも「自分の意向どおりにしてくれること」を望み、そうしてくれてこそ、その人を好きになり、愛するようになり、うれしいのだ。

人も「自分がこのようにしてほしい」と願うことをしてくれたら嬉しいように、神様も、そのように。

自分にとっての「まわり」が何なのか、

別に起業までする必要はない。

それでも「神様が自分に願っていらっしゃることは何だろう?」と足元をみるところから、大きな一歩は始まるのだと思います。

 

2016年9月9日 箴言の御言葉

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キリスト教福音宣教会(通称:摂理)のブロガー。普段は総合職で海外とつながるお仕事。女性の社会進出に興味有。漫画を描いたり写真を撮ったり泳いだり、多趣味極まりない感じで、色んなものが飛び出します。