「主張」がないことの良さ

先日、摂理デザイナーのcoaraちゃんと、礼拝で賛美をするときに前に映す歌詞のパワーポイント(歌詞パワポとか言ったりする)で、どんな写真を選ぶかを話していました。

↑こういうのね (JAPAN摂理より)

それで、興味深かったのが「自然万物とか、その中でも主張のない花を選んだりね」とさらっと言っていたこと。

これは本当にその通りで、
私も聖歌隊賛美の写真を毎回選ぶ中で、
迷うとここに行き着くのです。↓

小さな花とか
空とか
海とか…

人が映り込んでいたとしても
曲の雰囲気を壊さないものを選ぶようにしたり
個性の強い被写体は、曲に合わないことが多いから却下する確率が高いです。

でも、どの公園にでも咲いてる小花とかは、
すごく応用がきくので重宝しています。
空とか海とか「ありきたり」であっても、実はそれが中心を引き立てる上ではとてもよかったり。
主張があるものだと、写真のメッセージ性が強くなってしまって、
本来の賛美の良さが伝わらなくなってしまうんですね。
曲に合うときは、いいんですけど。

つまり何が言いたいかというと、

このように、人間も、よく「個性的」であったり、「主張」があったり、「人と違う」ことが何となく「ちょっとカッコイイ」とか「すごい」みたいな風潮があるような気がするんですけれど、必ずしもそうなる必要はどこにもないよねってこと。
むしろ主義主張や色がない方が、神様からしたら使いやすくて有り難かったり。

位置が大事だ。

御言葉を伝える人、時代と主を証する人、伝道し管理する人、命の面倒を見る人、牧会をする人、みんなそれぞれ「黄金の宝のよい位置、よい場所にいる人」です。
ちゃんとできなければ「黄金の時間、黄金の宝の場所」を奪われます。

色々な位置で、
色々な役割があるから、
全体が調和を成して一つになれる。

でも実際「同じよう」に見えても、
全く同じのものは、
一つとしてなかったりします。

もっと言うならば、人間にとっては他の人と違うことが「大きな差」かもしれないけれど、神様からみたら、それもあまり大きな差ではないかもしれない。
綺麗な花がたくさん咲いているのをみたら、「綺麗な花だ」とうっとりすることが先で、そこにどんな種類のどんな大きさの花があろうとなかろうと、あまり大きな問題にはならないように。

(チョンミョンソク)先生が40年間人々を育ててみたら、変化しても「個性」どおりに変化するのであって、それ以上はできませんでした。
<豆>が「リンゴ」にはなりませんでした。ただ、<豆>を加工したら、「豆腐」にはなり、「麺」にはなりました。
<リンゴ>が「ほかの穀物や果物」になりませんでした。
変化するにしても、「自分の個性どおりにその位置で変化」します。

 

個性って自然と出てくるものなのに、
「個性的」に生きること自体を目的にしてしまって、
無理に目立とうとしたり
合わないことをしてしまって
本来の位置から外れてる人って少なくない気がするんです。

 

みなさんの「位置」はどこですか?

 

2017.7.19 水曜日の御言葉:「位置が大事だ」より

ABOUTこの記事をかいた人

貿易の仕事をしながら摂理の教会に通っています。スイマー・おしゃれ信仰生活推進委員。今ハマってるものはインテリア。インターネットが好きです。