美容院のいつもの光景

先日、美容院に行きました。

最近、ちょっと部屋のインテリアを
気にかけていることもあり、
赤とグリーンの、背もたれが1mほどある
縦長の細長いデザインチェアが一脚ずつ
飾られているのに気づきました。

「素敵な椅子ですね、前からありましたか?」

と尋ねたら

美容師さん曰く、場所は変わることがあるけれど、
かなり前からあったよと。

これを聞いて驚きました。

だって、私はその美容院に何年も通っているのに、
初めて見るような感覚だったから。

結構大きいし存在感があるのに、
私は全然、気づいていなかった。

見えているはずなのに、
見えていなかった。

自分が意識しなければ、
絶対に気づくことができなかった。

このことを通して、神様の言葉にも、
この椅子のように接していなかったかと
気づかされました。

そこでイエスは言われた、「わたしがこの世にきたのは、さばくためである。すなわち、見えない人たちが見えるようになり、見える人たちが見えないようになるためである」。

ヨハネによる福音書3:39

これは、新約聖書のイエス様の言葉ですが、
ここでいう「見える」とは、
文字通りの目が見えるということではなく、
新しい時代の御言葉に目が開かれているかどうかということ。

端的に言えば、旧式の電話を使っている人に
新しい時代の電話のよさを伝えて
分かるか分からないか、ということです。
(参考:同じ主観圏、同じ形)

毎日伝えられる御言葉。

繰り返し伝えられていることがあったとしても、
自分が「盲目」であれば、
美容院に置かれた椅子のように、
絶対に気づくことができません。

このように、見えているにも関わらず、
見えていないことは、きっとまだあるはず。

見えるようになるためには、
自らが目を開かないといけない。

見るべきものを正しく見えるように。
また表面ではなく、本質を見ることができるように、
意識することはとても多いです。

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摂理の日常を描いてます。社会人で導かれ教会に通うようになりました。宗教や信仰を身近に感じてもらえたら嬉しいです。スイマー・おしゃれ信仰生活推進委員。今ハマってるものはインテリア♪インターネットが好きです。