<現在>が<結局>を決定する。
テモテへの第一の手紙6章17-19節
この主題を聞いた瞬間、脳裏に浮かんだイメージがコレでした。
「いつやるか?今でしょ!」
東進ハイスクールで東京大学・京都大学入試対策をされている林修先生のキャッチーすぎるこの言葉。
古くてすいませんなのですが(でもまだゆるく流行ってるでしょ?)、流行語にもなっちゃうぐらい人々の心を掴んだ背景には、漠然と「今」を生きていることへの危機感や不安の表れかなとも思いました。
(ここからまじめな話)
「未来」=「結局」を決定づけるのは、当然ながら「今」です。
喩えるならば、<結局>は「現在の生を総合して計算した額」(2015.9.22 鄭明析牧師の箴言)。
現在に何もなければ、当然未来にも何もなく、逆に現在を見れば、過去何を考えどう生きてきたのかも一目瞭然です。
そんなことはわかってる?
じゃぁ人生も、そのようだと考えたらどうでしょう?
<現在>は「肉の生」で、<未来>は「魂と霊の生」だ。
人生は二度生きることはできない。だから「初めからちゃんと生きること」だ。(同上)
人は誰しも、何らかのかたちで「現在」に「投資」します。
趣味だったり仕事だったり家庭だったり、色々なことに投資します。
でも、寿命なんてたかだか100年やそこら。
肉体が死んだ後の<未来>なんて分からないから、「今が楽しければいい」「なるようになる」「なるようにしかならない」となり、真面目に生きていたとしても、死後のことはよく分からないから、多くの人は<未来>を深く考えずに<現在>を過ごします。
でも、たった100年で終わる人生なら、一体何のための人生?
飲んで食べて結婚して働いて・・・それでおわり?
人は<現在>だけを考えるから、すでに<未来に希望のない生>を決定づけて生きる有様になる。
<現在>を生きて、<結局、未来>を考えて生きなさい。
<現在>も「あなた」が受け、<結局、未来>も「あなた」が受けて生きなければならないからだ。(同上)
<現在>が<結局>を決定することが真理であり理知ならば、大きな視点で「人生」という<現在>を捉えるところから、結実した<未来>が待っているのだという今日のお話。
Sol