先日、摂理教会のメンバー何人かと話していて、
あるメンバーがふと放った言葉です。
「結局、御言葉ひたすら読み込むしかないよね」
信仰生活をする上で、悩みや困難は少なからず生じます。
御言葉を思うように悟れなかったり、
自分の生活がこれでいいのかと悩んだり、
人との関係でぶつかってしまったり、
信仰生活に「迷い」が生じてしまったり、
「普通」とは違う生活をしているわけですから、
それなりに苦労もあったりします。
でも結局、問題を解決してくれるのは、人ではなく、御言葉。
日々の御言葉を聞く中で「考え」が肯定的に転換するからです。
これやったらいいかなやめようかな…
こんな時に「瞬間の機会を掴みなさい」なんて御言葉に出会うと、無条件「やるわ」と思えるし、「これやってて意味あるかな…」と否定的になってると「<未来>のために「小さいもの」を植えておきなさい」なんて御言葉に出会ったりして、「そうだそうだ」と立て直すことができたりします。
これは分かりやすい自身の一例にすぎませんが、
こんな風に生活の中で様々に自分の行いを正してくれるのが御言葉。
人に相談するのもいいけれど、
いちいち相談していたら時間もお金もかかってキリがありません。
何より、人の意見は、どれだけ素晴らしい人でも、絶対的ではない=間違っていることもあります。
悩んでいる時間をどれだけ短縮できるかが、うまく生きるための知恵でもありますよね。
うまくやるためには、大変でもみことばを聞いて、学んで、繰り返して行わなければならない。そうすれば余裕ができて老練になる。
「結局、御言葉ひたすら読み込むしかないよね」
冒頭の言葉に戻るわけですが、
摂理が目指すところは、
個人が神様と一対一の関係を築いて、
自立信仰を営めるようになること。
人に依存させることではありません。
インターネット上で閲覧できる御言葉はほんの一部にすぎませんが、1人でも多くの人が「御言葉で生きる」ことの味を知ってもらえたら嬉しいなと思います。
2017.7.15 鄭明析牧師の明け方の御言葉