宗教や信仰生活というと、教祖(?)の言うことや指導者や牧師の言うことをとにかく信じて従うイメージを持たれる方もいらっしゃるかもしれません。
「ここにくれば救われる!」
と、半ば無理やり自己洗脳(?)をして、信者が熱心に神様を絶対神として信じてついてゆく。
そして指導者も、来たばかりでよくわからない信者を無理やり信じさせる・・みたいな。
でも、摂理はそうじゃありません。
信じるほうも、導くほうも、無理やりだと、続きません。
好きで行なってこそ、信仰生活の喜びも、得られます。
結局、三位一体と救い主を悟って、好きで愛して生きなさいということです。
好きであってこそ、一緒に暮らして「その言葉」を守って行ない、考えも、行ないも、肉も、霊も変化して救われ、引き上げられるからです。
私は摂理にきて、無理やり何かをしたことはないですし、何かを無理に強いられたこともありません。
すべて、自分の選択で信仰生活を営んできました。
だから、たのしいんです。
無理しなくていいから。
この摂理ブログだって、言ってみれば好きで勝手にやってるわけです。
誰かに言われてはじめたわけではないです。
でなきゃここまで打ち込めない。
反応がなくとも、誰も読まなくとも、私は書き続けるでしょう。
よく分からずついていったり、無理やり従わせたところで、何も生まれません。
摂理はこの「自主性」をとても大事にします。
自分が進んで好きで熱心になり、熱くやってこそ、神様も聖霊様も御子もお喜びになり、その心と行ないを受け取ってくださいます。
信仰生活も自ら行なってこそ、神様も喜ばれます。
このような主体的な姿勢こそが、本来の信仰生活だと思います。
2016年2月28日 主日の御言葉より