摂理では、偶像崇拝はありません。
聖書にも、偶像に関する箇所はたくさんありますが、キリスト教では偶像崇拝を禁止しています。
ではこの偶像って具体的に何なのか?
木彫りの仏様やブッダ像を思い浮かべる方も多いと思うのですが、必ずしもそれらが「偶像」とは限りません。
神様よりもっと好きで愛するものが「偶像」だ。その偶像は、金(かね)の場合もあるし、環境の場合もあるし、愛する人の場合もあるし、自分が慕っているものの場合もある。(2016.01.06 摂理の御言葉)
「偶像」とは、自分がとても好きなもの、夢中になってしまうものと言えそうです。
つまりゲームとか、漫画とかも、偶像。
私の場合は、ブログかしら(笑)
人々は自分が<ある山>が好きならその山を「自分の象徴」と定めて自分化し、<ある作品>が好きならその作品を「自分の象徴」と定めて自分化する。
色々、自分が好きなものってありますよね。
木や岩などの自然万物も、言ってみれば「偶像」なわけです。
でも
その松の木や岩に溺れてそれを「神様」と思いなさいということではない。それを通して「神様」を感じなさいということだ。
つまり、ここで重要なのは、自分にとって「偶像」とされるもの自体を神として崇めるのではなく、その「偶像」を象徴として、神様を感じるということです。
「偶像崇拝」がなぜ禁止なのかというと、「偶像」が神様そのものになっている=神様を自分が見るものより低く見る、ことが問題ということです。
だから私が、神様を忘れてブログに没頭して、ブログ=神とまではしなくても、「神なしに人間は存在しない」ように「これないと生きていけない」的になったら「偶像崇拝」してるということです。
こう考えると、結構分かりやすくないですか?
やみくもに「偶像禁止」というのではなく、その背景や意味を分かってこそ納得がいくというものです。
神様も聖霊様も御子も「あなたたち各自が好きなものを、私を象徴するものと思いなさい。そうしてこそ、物質ばかり喜ばないで、私を考え、喜ぶ。そうしてこそ、『見えるもの』を通して『見えない存在、三位一体』を考え愛して接するからだ」とおっしゃった。
自分が木や石が好きなら、そればかり好きになってはいけない。<神様と聖霊様と御子>を自分が好きな石や木や宝と思って、「自分のもの」として愛して投資しなさい。
自分が<最高に愛するもの>が「お金」や「宝」や、あるいは「ある作品」、あるいは「ある人」ならば、<神様と聖霊様と御子>もそれだと思って、接しなさい。
そのように思わないで<自分が最高に好きなものの下>に思って接したら、神様は「他のものをもっと愛して好きで仕える者」だと見なして「偶像に仕える者」扱いをする。
つまるところ「偶像」は、お金でも、人でも、物質でも、何でもいいんです。
「偶像」自体が悪いわけではありません。
それ自体が実質的に「神」となり、溺れてしまうことが、問題だということです。
<自分が好きなもの>が「自分にとっての宝だ」。
<意味>を分かって「象徴」にしなさい。
みなさんは、どんなものが好きですか?
根本的に神様は、神様を感じることができるように、それぞれ好きなものを与えて下さるのだとSolは思いますが、何を神様の象徴に定めるか祈って考えてみて、この御言葉を実践できたら素敵ですね。