聖書を学んだり
礼拝で説教を聞いたりすることを
一般的に「みことばを学ぶ」と言ったりします。
当然ながら、強制されて学んでいるのではありません。
本人が学ぶ理由や必要性を分からなければ
途中でやめてしまうでしょう。
御言葉ってすごい。
御言葉っていいものだ。
いくら言葉でまわりから言われても、根本的に、本人がその必要性を感じなければ学ぶことってできません。
御言葉を聞いていても、何の変化もなかったり、感動がなかったりするの原因のひとつは、その人にとっての必要性が見いだせていないからだと思います。
人は「貴重な話」を聞いても行なわない理由はたった一つです。それがどれほど必要なのか分からなくて行ないません。
やらないという人たちも<必要性>が分かったら早速行ないます。<必要性>が分かったら急いで優先権でそれを行ないます。
人は言われても「必要性」を分かって悟ってこそ行なうようになります。
(2015年5月17日 主日の御言葉)
何故、自分は御言葉を学んでいるのか?
また、学ぼうとしているのか?
必要性があって聖書にも出会ったのだから、必ずその答えはあるはずなんです。
そうでなければ、惹かれることはなかったでしょう。
このブログからも、なにかその答えになるものがあれば、うれしいです。