御言葉を学ぶ必要性って何?

御言葉を学ぶ必要性

聖書を学んだり
礼拝で説教を聞いたりすることを
一般的に「みことばを学ぶ」と言ったりします。

当然ながら、強制されて学んでいるのではありません。

本人が学ぶ理由や必要性を分からなければ
途中でやめてしまうでしょう。

御言葉ってすごい。
御言葉っていいものだ。

いくら言葉でまわりから言われても、根本的に、本人がその必要性を感じなければ学ぶことってできません。
御言葉を聞いていても、何の変化もなかったり、感動がなかったりするの原因のひとつは、その人にとっての必要性が見いだせていないからだと思います。

人は「貴重な話」を聞いても行なわない理由はたった一つです。それがどれほど必要なのか分からなくて行ないません。
やらないという人たちも<必要性>が分かったら早速行ないます。<必要性>が分かったら急いで優先権でそれを行ないます。
人は言われても「必要性」を分かって悟ってこそ行なうようになります。
(2015年5月17日 主日の御言葉)

何故、自分は御言葉を学んでいるのか?
また、学ぼうとしているのか?

必要性があって聖書にも出会ったのだから、必ずその答えはあるはずなんです。

そうでなければ、惹かれることはなかったでしょう。

このブログからも、なにかその答えになるものがあれば、うれしいです。

2 件のコメント

  • ガーベラもSolさんも
    素敵(o^^o)♪
    ハレルヤ

  • 恐縮です、ありがとうございます・・(*_*)
    ガーベラいいですよね!日持ちしますし!(笑)
    平日は教会に行けないので、せめて毎週自宅献花でもしようと…なかなか余裕がないとできないですけどね^^;
    いつもコメントありがとうございます☆彡

  • ABOUTこの記事をかいた人

    キリスト教福音宣教会(通称:摂理)のブロガー。普段は総合職で海外とつながるお仕事。女性の社会進出に興味有。漫画を描いたり写真を撮ったり泳いだり、多趣味極まりない感じで、色んなものが飛び出します。