よく、摂理の御言葉の中で「心を空ける」というフレーズを聞くことがあります。
特に礼拝の時、説教を聞く前などに聞くかな?
神様の言葉を100%聞いて消化するには、
自分の雑念や雑多な考えを一切捨てて、
完全に受け入れ実践に落とし込むことが必要です。
これを「心を空ける」と言ったりしますが、
弊害となるのが、自己中心的に、部分的に、
都合の良い部分だけを切り取って聞いてしまうこと。
この部分は好きだから聞いて実践する。
けどこの部分は受け入れられないからやめておく。
それだと、栄養が偏るように、
食べてこそ完成されるものが、
されなくなってしまいます。
つまり「御心通り」の生を
生きられなくなるということ。
成長が、そこで止まってしまうのです。
今日、ある牧師さんの話を聞いていて、
そんなことをぼんやり考えていたら、
別の牧師さんもブログで全く同じことを書かれていました。
(御言葉を聞いてもうまくいかない・変化できない原因の一つは)御言葉の中で自分の納得した言葉だけを実行している、ということです。または、自分の生活の中で差し込めそうな言葉だけを差し込んで部分的に実行している、という事です。(女牧師のブログ「変化の秘訣?!」より)
御言葉は万人に共通する真理を伝えているので、
具体的に「◯◯会社に就職しなさい」とか
「今やっているXXをやめなさい」とかは言いません。
それは根本的な「自立」につながらず、
そのような直接的な「答え」を求めるのは、
依存性のある次元の低い願い求めだと思います。
あくまで御言葉を聞いて、
自らその答えにたどり着くことが重要であり、
その過程の中で「やっぱり御言葉が最高!」
と思える神様との経緯を作ることが大切です。
そのためには、どんな御言葉でもオープンに受け入れる姿勢、つまり「心を空ける」ことがとても重要。
でもこれって、自分の既存性や古い体質を捨てることでもあるから、とても怖いことでもあります。
実は私も、この秋に環境をガラッと変えようとしているのですが(転職とか引っ越しとかそういう類の)、御言葉通りに行って得た結論なのに、後から出てくる出てくる自分のいらない不安や考え、雑念邪念…。
一体、いつからこんなに保守的になってしまったのだろう!?と愕然とする日々ですが、今週の御言葉「神様の御心通り、主の御心通りに生きなさい」を聞いて、もうどうにでもしてくれ状態になりました。頼むよ神様。
御言葉は永遠不変な真理。
一部分だけを実践するのではなく、
丸ごと実践しようとしてこそ神様が働かれ、
得るべき祝福も受けられるのです。
<自分の意向を実践する人>は「あまりにも小さい生を生きる人」だ。
<神様の御心>通りにできるように「御心」を勤しんで探して、行いなさい。
2019.7.11 明け方の御言葉より