「信仰」というと、何だか格式高く(?)敬遠してしまうイメージが、一般的にあるようにSolは思えます。
特に日本人は、真面目であるので、信仰を持つと、何だか生活が縛られてしまいそうな、そこから抜け出せないような(笑)そのように考えてしまう人も少なくないのではないでしょうか?
実際、Solも海外に行かず、日本だけで過ごしていたら、そのように思っていたかもしれません。
けれども「信仰生活」という言葉があるように、「信仰」は、何か特別な時やイベント的に実践するものではなく、むしろ日々の生活に根付いているもの。
だから、摂理では「生活の中の英雄になりなさい」と説きます。
家、学校、職場、公的勤務地、個人の使命地など、「24時間の自分の生活」が重要です。
「生活の点数」がよくなければなりません。
(2014年8月24日 摂理・鄭明析牧師の御言葉)
摂理の信仰生活で大切なのは、何より、自分の位置や環境で、御言葉を実践してゆくこと。
教会にいる時、イベントがある時にだけ、どれだけ神様を呼び求めて、立派な信仰人らしく(?)見えたとしても、生活の中での小さなことを実践できなければ、意味がないと御言葉では伝えられます。
生活の中の義なる小さい行ない一つ一つは「一文字」と同じで、「一つの単語」と同じで、「一つの文章」と同じです。
だから人がいてもいなくても、<自分の人生>を考えて、<自分>が「生活の中」でちゃんとやらなければなりません。
(2014年8月24日 摂理・鄭明析牧師の御言葉)
「教会に来れば救われる」なんて御言葉は、思えば今まで一度も聞いたことがありません(笑)
それだけ摂理が、生活の中での信仰に重きを置いているということです。
いや、むしろ、生活=信仰と言ったほうが、正しいかもしれません。
「宗教」というと、派手派手しかったり、何か大きなことのように思う方もいらっしゃるかもしれませんが、実際すごい地味なんです。
今は「信じる時」ではない。
「新郎(御子)と対話しながら一緒に暮らす時」だ。
(2014年7月11日 摂理・鄭明析牧師の御言葉)
鄭明析先生は、神様を「新郎」、私たちを「新婦」にたとえ、今はこのように、結婚した2人が共に暮らすように、私たち人間が、生活の中で神様と暮らす時なんだとおっしゃいます。
近い将来、家庭で礼拝を守る日が来るだろう。
Solが摂理に導かれて間もない頃、どこかでふと聞いて、すごく印象に残った御言葉です。
人や、組織に頼ることなく、個人が、生活の中で神様との一体一の関係性を築き、御心の中で、神様に仕える生を生きる。
そのような神様との「生活愛」に人々が気づき始めたのなら、真実な「平和」が成される日も、遠い話ではないのかもしれません★
Sol