ひとつのことだけできても、信仰生活は成り立たない

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摂理の信仰生活って何やるの?と思う方は多いと思うんですけど、基本、普通の生活となんら変わりはありません。

普通の生活に、お祈りや、教会に行くことや、聖書を学んだりするエッセンスが増えるという感じかな。
でも、何かひとつだけよく出来たとしても、それでは信仰人として次元が上がらないのだと御言葉では言われます。

お祈りだけしかやらなかったり、教会の仕事ばかりしていたり、使命がよく出来ても人格に問題があったり、また人格がいくら素晴らしくても教会のことを何もしてなかったり、まぁとにかくひとつのことしかやらないのは限界があるってことでしょう。

突き詰めれば、仕事は派生してゆくので、とっかかりはひとつのことでもいいと思うんですけどね。

でもそれだけしかやらないのは、信仰に限らず狭い道しか進めません。
(・・って、ブログばっかやってる私が言うのもアレですが・・)

信仰は、色々なことがあるから、まんべんなくできるようにしなさい。
全体ができるようにならなければならない。
三位が願うことをどれだけ兼ね備えることができるかどうかだ。
三位が願う姿にたくさん似るようにしなさい。
(2016.01.03 主日の御言葉)

神様は何でもできますからね。
信仰人も、そのようになることが求められてるんです。

私も人格を磨かないと。

楽しいですよ、摂理の信仰生活(・ω・)

ABOUTこの記事をかいた人

キリスト教福音宣教会(通称:摂理)のブロガー。普段は総合職で海外とつながるお仕事。女性の社会進出に興味有。漫画を描いたり写真を撮ったり泳いだり、多趣味極まりない感じで、色んなものが飛び出します。