一般的に、キリスト教では、「献金」をすることが習慣となっています。
摂理でも、礼拝時に捧げる「一般献金」であったり、特別に神様に感謝をするときに捧げる「感謝献金」、収入の1/10を捧げる「1/10献金」などがあります。
私の考えはこうである。少しだけ蒔く者は、少しだけしか刈り取らず、豊かに蒔く者は、豊かに刈り取ることになる。各自は惜しむ心からではなく、また、しいられてでもなく、自ら心で決めたとおりにすべきである。神は喜んで施す人を愛して下さるのである。
(新約聖書:コリント人への第二の手紙・9章6節)
この聖句が示すように、献金は、強いられて行なうものではなく、自発的に、神様に捧げるもの。
もちろん一般献金などは目安となる金額はありますが、最終的には本人の意思に委ねられます。
摂理で献金を強要することも、絶対にありません。
蒔く人に種と食べるパンを与えてくださる方は、あなたがたにも種を備え、それをふやし、あなたがたの義の実を増し加えてくださるのである。
(新約聖書:コリント人への第二の手紙・9章10節)
献金をするとわかるのですが、自分が献金を捧げて、神様の心に見合うことさえするならば、実際にまたお金という形で返ってきたり、お金以上の価値として自分に返ってくることがよく分かります。
私が社会人になりたての頃は服も買えず「献金、無理。まじ無理。」とよく思いましたが(笑)、「神業」とも言える数々の転職劇をこなし、教会活動のため仕事を1年以上置いた時期も、その後転職した会社が過去最高業績を叩き出すなど、自分の力ではない働きを数多く体験しました。
経済的にも神様は、必ず守ってくださり、不足がないようにして下さるのだなと感じる次第です。
この世の中のものは、もともとは、神様が創造されたもの。
私たち人間は、神様のものを使っているにすぎません。
だから、受けるだけではなく、受けたものを返すという考えで生きるのは、自然なことなのかなと思います。
そうすると、神様はまた倍以上に「祝福」として下さるのです。
鄭明析先生の生が、まさにそのようではないかと。
しつこいですが、摂理は強要は絶対にしませんので(されたら別の何かかも・・)、最終的には、するしないの判断も含め、真心でふさわしく捧げてゆけたら良いですよね。