摂理では「恵み」という言葉がよく使われます。
仕事や学校、家庭など、
こんなことがあってとても恵みだった!とか、
神様の働きかけを感じて恵みだった、とか、
ご飯おいし〜♪
インテリアかわい〜♪的なものまで←
わりと幅広く使えてしまうこの言葉。
信仰的であれ、物質的であれ、
何か喜ばしいことを享受すれば、
それはその人にとっての恵みです。
私にとっては、
ブログを書くことも恵みかな。
でもある人にとっては、別のことが恵みでしょう。
このように人によって恵みは様々ですが、
先日、恵みの核心をついたフレーズがありました。
悟ることが恵みだ。
悟ること。
つまり、神様への考えが新しくなること。
観が変わること、知ること。
自分の信仰面での無知が崩れること。
それが、恵みだと言うのです。
核心ついてると、思いません?
いわゆる一般的な恵みは、
おいしいものを食べたり、
いい暮らしをしたり、
よいパートナーにめぐりあうことだったり、
そういうことがまず思い浮かぶと思います。
もちろんそれらも恵みですが、
もっと本質的なところは、そうじゃない。
神様にとっては、
人間が神様に歩み寄ることが一番の恵みなのです。
そのような恵みを、信仰を持ちながら、
一体どれだけ生活の中で享受できているか?
またその恵みを受けるために行っているか?
このひとことから、こんなことを考えさせられました。
根本的に、後者の恵みがあってこそ、
満たされるというもの。
前者だけでは、限界がきてしまいます。
ぜひ、摂理ならではの悟りの恵み を、
多くの人に感じてもらえたらいいなと思います。
2018.12.23 主日礼拝の御言葉