「偶像」とは何か?②

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①の続きですが、摂理の御言葉で「偶像」はそれ自体が神様ではなく、神様の象徴だということをお伝えしました。

このように考えると、聖書に出てくる数々の問題も解けるかと思います。

例えば、モーセの時代、<シナイ山>は「神の山」、「エホバの山」と呼ばれていましたが、これはもちろんシナイ山=神ではありません。

「泉」のことを<ヤコブの井戸>だと言うこともありましたし、また<モリヤ山>を「神様の聖殿の丘」、「エホバの山」だと言ったこともあります。

もちろんすべて象徴です。

<自分に似たもの>があったら、それを「自分の象徴」とする。
聖書を読んでみると、神様は「岩、磐石、山、木々」を「神様の象徴」に定めさせた。

そういえば、青森県には「モーセの墓」があるとかないとか・・。
これは、よく知りませんが・・。

人間って不思議なもので、自分の好きなものがあると、自己投影するというか、その対象のもの以外の意味づけをしたくなるんですよね。
このように考えると、私も人形やらおもちゃやら、数々のものを神格化していたなぁ・・(遠い目)

<石>も自分に似ていたら「自画像」と定めて意味あるものにする。
<石>もそうだし、<泉>もそうだ。

昨日も書きましたが、「偶像」自体が悪ではありません。

偶像より神様を低い位置で見てしまうことが問題であって、だから信仰のために自分が好きなものを「これは悪い!」と捨てることも極端で知恵のない考えだと思います。

神様と聖霊様と御子は<本体>で現れることはなさらず、<象徴体>を通して現れて対話なさり、その御心を伝えて語られる。

<自分が好み、愛するもの>で「自分を象徴」するようにさせるのだ。

<神様と聖霊様と御子にとっての宝>は「人間」だ。<最高の宝>は「魂と霊」だ。そして「その人が愛するもの」だ。

こういうこと、ですね。
私も自分が「愛するもの」とじっくり向き合えたら良いなと思います。

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洒落感と抜け感のあるエフォートレスな信仰生活を目指しています多分。スイマー&おしゃれ信仰生活推進委員。仕事は貿易事務。絵を描いたり写真を撮ったり、クリエイティブなことが好きです。