新渡戸稲造(1862)といえば、かの有名な「武士道」の著者。(5000円札の人です)
「少年よ大志を抱け」で有名なクラーク博士が学長を務めた、北海道大学の前身である札幌農学校在学中に洗礼を受け、熱心な信仰を持って、友人達とともに信仰と勉学の日々を送った人物です。
当時、東大が「官僚輩出」をする学校だったのに対し、北大は「リベラルな精神を持った人材輩出」をする学校として、日本の主流だったようですね。
「太平洋の橋になりたい」と、その後、米国、ドイツへと渡り、名著『武士道』を英文で書きあげ、1900年(明治33年)に『武士道』の初版を刊行しました。
著書は、ドイツ語、フランス語など各国語に訳されベストセラーとなり、セオドア・ルーズベルト大統領らに大きな感銘を与えたことはあまりに有名です。
日本語訳の出版は日露戦争後の1908年と、海外より後だったんですね。
このように、『武士道』の著者の経緯ひとつを見ても、「武士道精神」は、日本国内で完結するものでは決してなく、むしろキリスト教と深い関わりをもって、全世界に共通する普遍的な精神あることが分かります。
武士の切腹は宣教師の殉教に通じる。
「義」は「愛」に呼応する。
ー武士道とキリスト教 (新潮新書)
切腹という自己犠牲。
殉教という自己犠牲。
どちらも目的が共通する犠牲愛と重なるいうことです。
日本にキリスト教を布教したのも、プロテスタントの宣教師と、改宗した幕末の士族たち。
士族に影響を与えた宣教師たちも、多くはアメリカの南北戦争を戦った元軍人たちだと著者は説きます。
平和と愛を説くキリスト教。
犠牲愛を説く殉教精神。
武士道の倫理観と、キリスト教の教えは、非常に共通点が多そうです。
愛しているから自分を捧げ、すべてのことを行なう「真の愛」を学び、その愛が自分の心に到達し、御子と「真の愛」を成すのだ。
(2014年11月11日 摂理・鄭明析牧師の御言葉)
だから牧師x軍人(武士)という構図は、一見矛盾するようでも、根本の精神を見たときに、全く矛盾しないのですね。
牧師x科学者という構図にも似ています。
このように考えてゆくと、日本のエリートたちが過去にキリスト教を積極的に受入れたことも頷けますし(では「なぜ日本が武士道だけで成り立たなかったのか?」は後日考えてみたいテーマです)、
またこれからも、時代が揺れ動く中で、これまで築き上げてきた思想を補完するように、より「完全」な真理が求められていくのではないかなと、新渡戸稲造の生涯からも、Solは感じました。
ただで次元が高くなるのではない。繰り返して最善を尽くし、「試行錯誤」を経ながらするのだ。そうしてこそ、次元が高くなる。
(2014年11月13日 摂理・鄭明析牧師の御言葉)
ところで、十字架にかけられたイエス様も、チョンミョンソク先生も「武士道的」と言われれば、そのように思えます。
負けてあげながら愛してあげる者が、この世で最高の勝利をつかむ者だ。
勝利の秘法はまさに犠牲と愛だ。
愛がなかったら犠牲もなく、犠牲がなければ愛もない。
(「十字架の意味」より)
新渡戸稲造氏の「功績」は、まさにこの共通性を作品に残したことだと思います。
Sol
写真:十和田市立 新渡戸稲造記念館公式サイトより