今日は、19世紀フランスの画家 ジャン=フランソワ・ミレー(1814-75)の話をしてみようと思います。
この絵画は、おそらく最も有名な「種を蒔く人」(The Sower, 1850)。
岩波書店のシンボルマークにもなっていますよね。
Solは、この絵画を見る度に、新約聖書の「種まき」に関する聖句を思い出します。
ミレーは、パリの南方約60kmのところにある、フォンテーヌブローの森のはずれのバルビゾン村に定住し、風景や農民の風俗を描いた画家です。
もちろん、クリスチャンです。
「落穂拾い」(The Angelus, 1857-59)
「羊飼いの少女」(Shepherdess with her Flock, 1863)
信仰を持っていると、「あぁ~」と頷く方も多いのでは?
聖書的に(Solが)解釈すると、種撒きの比喩は、聖書で他にも「からし種」の喩えが出てくるように、「信仰の種」と言われています。
花も、種を蒔いて育てた通りに、花が咲くように、
農作物も、種を蒔いて育てた通りに、実を実らせるように、
信仰も、そのように「行ない」という「種」を蒔いた通りに、(天が与えて下さった)得るべきものを、刈り取るようになると言われています。
イエスは比喩で多くの事を語り、こう言われた、「見よ、種まきが種をまきに出て行った。
まいているうちに、道ばたに落ちた種があった。すると、鳥がきて食べてしまった。
ほかの種は土の薄い石地に落ちた。そこは土が深くないので、すぐ芽を出したが、
日が上ると焼けて、根がないために枯れてしまった。
ほかの種はいばらの地に落ちた。すると、いばらが伸びて、ふさいでしまった。
ほかの種は良い地に落ちて実を結び、あるものは百倍、あるものは六十倍、あるものは三十倍にもなった。
耳のある者は聞くがよい。
(新約聖書・マタイによる福音書13章3-9節)
とても有名な聖句ですよね。
種は、誰しもが撒くことができます。
けれども、育てなければ、刈り取ることは、できません。
そしてそれは、特権階級の人や一部の富裕層だけではなく、「農民」という貧しい人たちにも平等に与えられた権利。
信仰の種は、ふさわしく蒔いて行ないさえすれば、神様が見て下さっているので、必ず得ることができます。
辛い環境や状況・・そのような外的要因をも顧みず、ただ刈り取るべきその「時」のために、勤しんで撒いて行なうこと。
ミレーの「種を蒔く人」は、その重要性を、教えてくれるようです。
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ちなみに「落穂拾い」は、レビ記に記載がありますが、落穂拾いというのは、当時、麦畑の収穫を、地主に雇われて手伝う零細農民が、労働報酬の他に収穫の10%だけ、残された落ち穂を拾う権利を示す風習でした。
この10%というのが、ポイントかもしれません。
聖書では、神様が人間に与えて下さったものの1/10を、清い捧げ物とする記述が多くあります。
絵の中の人物も、祈っています。
落穂を拾う零細農民、1/10を受け取る神様・・色々と、ミレーが示唆することへの創造が膨らみます。
羊飼いの「羊」は、「迷う者・群れる者=人間」として、聖書の中で、何度も比喩で語られていますよね。
イエス様が「羊」として「生贄」と指される比喩もあります。
けれどもこのミレーの絵画、興味深いのが、ゴツいおじさんとかではなく(笑)、「少女」なんですよね。
19世紀は、産業化が進み女性の社会進出が進む転換期でした。
羊を率いる存在としての少女の姿は、まだまだ研究の余地がありそうです。
このたった3枚の絵画から見ても、Solが(恐れ多くも)親近感を持ってしまうのは、ミレーが庶民の姿を描いているからに他ならないから。
信仰は、特別な人が持つものではなく、誰でも持つことができる。
つまり、地球上の誰でも神様と疎通することができる。
そんなメッセージを、ミレーが伝えてくれているような気がするのです。
聖書を中心として、世の中の全ての人々の中で神様の祝福を受けた人達は、みんな涙をもって種を蒔いた人達だ。
だから喜びをもって刈り取ることができたのだ。
農夫が種を蒔かないと200倍300倍と刈り取ることはできない。
人生も同じだ。
辛く大変でも理想のために種を蒔き、手入れをして、努力して初めて、喜びをもって刈り取ることができる。
(2003年1月12日 摂理・鄭明析牧師の御言葉)
ミレーの絵画に、敬意を込めて。
そして、摂理人もまた皆が、時代の「種を蒔く人」になれますように。
Sol
Photo from: Jean-Francois Millet – The Complete Works
http://www.jeanmillet.org/