<自分の時>があります。「自分の時」に大きくならなければなりません。
摂理では、それぞれに信仰をもつにも「時」があるのだといいます。
親が摂理で信仰をもっていれば、自然と信仰をもつことにもなるのでしょうが、そのような人たちはまだ少数。
そうでない人たちが多いのが今の日本の摂理です。
もちろんSolもそのひとりです。
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信仰をもとうと思ってもてるものでもありませんし、「ここがいいな」と心から思える場所にすぐに出会えるわけでもありません。
実際Solも、信仰に漠然とした憧れはありましたが、摂理にくるまで「コレだ!」と思うものには出会えませんでした。
教会の人にも摂理に来た「時」を聞いてみると、実に様々です。
学生生活を充実させたいと思っていた時だったり、もっと変化や成長をしたい時だったり、世の中を変えたいと思っていた時だったり、「自分軸」の必要性を感じていた時だったり…
大学生でなくとも、社会人であっても、結婚された方であっても、位置や次元は違えど根本は同じで、それぞれに導かれる「時」があるのだなという感じがしています。
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いつも自分の時がある。
必ず自分の時に大きくならなければならない。
時が過ぎたら、あとではやりたくてもできない。
もし、何かがきっかけで摂理に出会って、何か感じるものがあるならば、それは自分にとって神様に出会う「時」。
信仰という「種」をまいて、「成長」させ「変化」させる「時」でもあるということです。
春に咲く花が冬には決して咲かないように、「種」をまくにも「時」があります。
このブログも、そんな「時」のきっかけになれば、うれしいです。
2016年2月21日 主日の御言葉より