威圧的?なぜ摂理の御言葉は断言口調なのか?

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以前、ある方が、御言葉が断言口調なのが最初は強く感じて抵抗があった、ということをおっしゃってました。

確かに、「~だ」、「~である」、「~しなさい」とか、かなりハッキリしています。

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御子は御心とおり生きるようにおっしゃった。

聖三位一体は、人間を愛してくださっている。

人間は、神様の創造目的を知らなければならない。

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こんなかんじで。

私は、この点に関しては特に何も思わなかったのですが(強く聞こえても「そういう意見なんだな」でおわる)、和を重んじる文化や、敬語の背景から、断言口調は、日本人には敬遠されることもあるのかなと思います。

でも、じゃあこれが断定を避ける語尾だったらどうでしょう?

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御子は御心とおり生きるようにおっしゃったと思う。

聖三位一体は、人間を愛してくださっているであろう。

人間は、神様の創造目的を知る必要があるのではないだろうか?

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┌┤´д`├┐

・・??? ってなります。

「もっと自信もって!」

と言いたくなります(笑)

「考え」が「刺さらない」んです。

聖書もこんな感じだったら、人の心をここまで掴まなかったはず。
聞いてるほうの考えがブレてしまいます。

言葉ってよく見てみるとおもしろい。

抵抗ある方は、まずは「断言」=「上から」「威圧的」という認識観を一旦置いて、
そうでない口調との違いを考えながらもう一度読んでみると、また違った発見があるかと思います(・ω・)ノ

ABOUTこの記事をかいた人

キリスト教福音宣教会のブロガー。社会人で教会に通うようになり、日常を記録したい思いからブログをはじめました。絵と写真が好き。趣味は水泳&インテリア。名古屋・主の栄光教会所属。