みなさんは、おいしい柿がどのようにして実るのかご存じでしょうか?
良い柿の木(甘柿)は、その種を蒔いて単体で実るものではなく、
豆柿(渋柿とも言います)の木に接ぎ木をして初めて、その実を実らせます。
豆柿の木に接ぎ木するところを「三角の形」に切って、それに合うように、良い柿の木を切って接ぎ木をします。
この時、豆柿の木は切りますが、根はそのままにしておきます。
↑こんなふうに
*大雑把すぎてゴメンナサイ!
↑育つとこのように!立派!(奥は先生のお家です)
だから、豆柿の木に良い柿の木を接ぎ木しても「根」は残ります。
しっかりと、土に根ざし、一度生えたらなかなか切ることができないもの。
この「根」は文字通り、人間の「根性」「性根」だと御言葉では言われます。
どれだけいいものを接ぎ木しても、残ってしまうもの、それが「根性」という「根」。
「血気、カッとなる性格、憤り、悪口、我慢できずに吐き出す言葉、我(が)、本性」などは、悪い根、つまり<悪い根性>です。
御言葉と一体になった生活を行えなければ、これらは簡単に表出してしまい、甘い実を実らせることはできません。
そしてこの<根性>同士がぶつかりあったら、友人、親子、夫婦、さらには民族間において、根が絡み合うように、大なり小なり衝突が起こります。
逆に<良い根性>は、「持続する気質、善良で純真な心、執念や義理、理解されずとも行う気質」などです。
御言葉に従順しさえすれば、自ずと<悪い根性>は切られ、<良い根性>でもっと良い実を実らせるようになります。
衝突しても、相手の<悪い根性>を、<神性>で包むように愛で接するようになります。
さらに次元を上げて説明すると・・
人間・・・豆柿の木の根(地)
神様・・・良い柿の木(天)
となります。
「根と木」が一体となって生きるように、「この世と天」、つまり「人間と聖三位」が一体になって生きることが、天の理知であり法則。
「根」同士でも栄えず「木」同士でも栄えない。
「骨」と「肉」が「体」として一体のように、異なる性質のものを接ぎ木するからこそ、愛が完成されます。
人間は天使より勝ってると摂理の世界では言いますが、天使は神様と同様、霊の存在だから、神様の接ぎ木の対象にはならないんですね。
異質なものから完成された一本の柿の木のように、神様と人間の関係が成り立ち、その理知によって世界が動いているのだと考えると、とても神秘的かつ勇壮です。
まさに、抜群の比喩。
どうせなら、食べてしまいたいぐらい、おいしい柿の実を、人生において実らせたいものです♪