摂理の教会は「会社」や「公務」とは違うという話

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教会は、会社のようになってはいけません。

1月3日の主日の御言葉でチョウンさんが伝えてくださいました。
改めて、ハッとさせられたな~
ここで言う「会社」とは、ごく一般的なピラミッド型の会社と考えたら良いかと。

教会って、やることが本当たくさんあるんです。

聖殿だって、管理や掃除といった維持作業がありますし、何しろ人がとにかく出入りするので、色んなものも散らかります。

動くのも人ですから、そうしたハード面に加え、新しく来た人たちを見てあげたり、礼拝準備を整えたり、イベントの催しだったり、まぁとにかく色々とあるものです。

そういうものを整えようとすると、1人ですべては出来ないので分業体制ができあがって、システマチックになっていって、ただの形式的な「流れ作業」で終わってしまう可能性だってあるわけです。
まさに、雇われ社員のような。

また牧師さんとは名ばかりで、「組織をおさめたい」という個人の欲求や目的を成す場所と化してしまったらどうでしょう?
それは独裁的なワンマン社長のような…。

でも摂理は、そういうところじゃありません。
基本、みんなが主体的につくりあげてゆく組織だからです。
年齢とか、使命とか、信仰年数とか、そういうのも根本的には重要じゃありません。

神様の御心を成してゆく組織でなければいけない。

すべては、このためです。

ここが、いわゆる「会社」とは異なる点かな。
「システマチック」な「公務」とも違います。

根本的に「利益」は、神様の「利益」のためです。
人じゃありません。

気になる教会組織事情。
「天の組織運営」についても、色々と書いてゆきますね(・ω・)ノ

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キリスト教福音宣教会のブロガー。社会人で教会に通うようになり、日常を記録したい思いからブログをはじめました。絵と写真が好き。趣味は水泳&インテリア。名古屋・主の栄光教会所属。