私が摂理にきて学んだことのひとつが「感覚」です。
「霊感」ともいえるこの「感覚」ですが、簡単に言うなら「神様の感覚」です。
人生は感覚だ。何かをするにしても、時に従ってもっと弱く、あるいはもっと強く、あるいはもっと柔らかく、あるいはもっと強力にしなければならない。
自分は、摂理に来る前からも、結構感覚的な人でした。
理屈であれこれ考えてはみるけれど、結局最終的な判断は、感覚。
「こっちじゃない気がするからこっち」
学校を辞めるとき、大学選び、留学先、仕事選びetc..
今まで何度この感覚に従ってきただろうか・・。
でもすべて順風満帆というわけではなく、
常に「こちらがいい」という「自分の考え」と戦っていたと思います。
でも、たいてい自分の頭で決めたことって、続けるうちに苦しくなることが多かったです。
精神の感覚と行ないの感覚が分からないで無理にしたら壊れる。折れる。できるはずのことがだめになる。もう少しだけすればできるのに、感覚が分からなくてできないから、だめになる。
うん、何度もだめになり、挫折したよ・・。
でもその度に「こちらだよ」という自分ではない何かの「感覚」が頭をよぎって、それに従うようにしていました。
そのようにすると「満足」まではいかないにしても、自分を持続できる位置に立つことができました。
我々が主を信じて生きても、世の中の側の考えをたくさんすれば、主の感覚が鈍くなって、まるで霧の中の物体を見るようで、主を正しく見分けることができず、考えることもできない。
ある食べ物を食べるとき、その食べ物の味を完全に感じようとするなら、その食べ物だけを食べなければならない。口の中に2、3種類の食べ物を入れていながらその食べ物を食べれば、感覚が鈍くなって、その食べ物の味を正しく感じることができない。ただ主だけを心に置いて考えてこそ、主の考えが分かって、分別する。
今思うと、あれは神様の「感覚」だったんだなって思います。
メリーゴーランドのようにグルグル考えをめぐらせていた大学時代までの人生ですが、社会人になって摂理にきて、お祈りをしたり、礼拝を捧げる中で、一層その「感覚」が磨かれて、目先のことはもちろん、人生の決断が早くなりました。
ぼやっとしていた「感覚」が研ぎ澄まされる感覚です。
これは、信仰を持つからこそ味わえる醍醐味であり、理屈や知性に偏重している現代社会にも必要なことだと思っています。
お金では決して買えない、神様の「感覚」。
ぜひ摂理でその感覚を、体験してほしいなと思います…★
2010年12月3日 摂理・箴言の御言葉より