宗教団体や信仰生活というと、癒しや「苦痛からの解放」的な心地よいミュージックで洗脳?されるイメージがある方もいらっしゃるかもしれません。
そこでは自助努力は求められず、教祖に安心感を求め、教祖の言うことに盲目的に信じてお金巻き上げられる・・みたいな。
もしこのような考えを摂理にお持ちであるのならば、それは間違っています。
スキーを学ぶのは大変だからといって大ざっぱに学んで、スキー場に行ってスキーをして、転ぶまいと雪の上でありとあらゆる努力と研究をする。しかし続けて努力しても、転んでけがをし、死ぬこともある。
<信仰の生>もそうだ。行いつつ学び、学びつつ行いなさい。
楽をしようとして「すべきこと」までしなければ、もっと苦労でもっと苦痛だ。
この御言葉から分かるように、摂理の信仰生活は「努力」が必要です。
それはスキーを学ぶようなものだと、鄭明析先生はおっしゃいました。
ウォルミョンドン(摂理の聖地)の山道も、大変でもつくっておいた。結局摂理人みんなが楽に行き来するようになった。
<道をつくること、心をつくること>だ。この2つのことは、大変でもつくっておけば一生楽だ。作ったことのある人だけがわかり、誰よりうれしく思い、喜んで使う。
私たちが摂理の信仰生活をとおしてつくっているのは、神様とつながる「信仰の道」。
完全でいらっしゃる神様の相手となるにふさわしい自分をつくることなのです。
それは「ラク」なことばかりではありません。
何か目に見える「モノ」を与えられたり、買わされたりすることは一切なく、ただ「御言葉」で自分をつくります。
言ってみれば「自分がやるかやらないか」なのですが、私はこの「やるやらない」も本人の意志に委ねているところが、摂理は「本物だ」という確信につながりました。
強要されたり、無理やり行うことで、大きく得るものはないからです。
教祖と信者の「依存関係」で成り立つ組織は長くは続きません。
自立信仰を促しているかという視点で、摂理もみていただけたら、また見方も変わるのではないかと思います。
2016年11月4日 摂理・箴言の御言葉