摂理で檀上に立つことについて

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以前、摂理教会の牧師さんがおっしゃっていました。

檀上は少しでも汚れていると立てない聖なる場。
だから誰でも立てるわけではない。

ここでいう「汚れ」とは、目に見える汚れはもちろんですが、根本は心と行ないの汚れ。
聖殿は、言ってみれば神様がいらっしゃる場所で、檀上は神様の御言葉が伝えられる核的な場所だから、そこに汚れたものがあってはいけないのです。

参考:
摂理の建築家たちと、手作りの教会
摂理の教会―人間が「神」になれる場所

信じる人たちが<聖殿の建物>を建てて「神様の宮」だと思って、好み、喜ぶから、神様と聖霊様と御子は<聖殿>を、「三位一体」を象徴するものにして、「聖殿がすなわち私だ。神様のように思いなさい」とおっしゃった。

Solは礼拝前、よく講壇の拭き掃除をすることがあるのですが、このことをいつも分かって磨きたいと思います。

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キリスト教福音宣教会(通称:摂理)のブロガー。普段は総合職で海外とつながるお仕事。女性の社会進出に興味有。漫画を描いたり写真を撮ったり泳いだり、多趣味極まりない感じで、色んなものが飛び出します。