御心とは、神様が願われることですが、
それは必ずしも自分の「好きなこと」でしょうか?
御言葉では、このように伝えられます。
自分が好きでやるからといってすべてが「神様の御心」ではない。ただ「救い人」と一体になって「主を頭」にして行ない、「三位の考え」どおりに「三位が願われること」をしなさい。
いくら好きだからといって、
じゃあそれが神様がその人に願うことかと言ったら、そうではないのです。
あくまで中心は、神様が願われること。
極端な話、いくら歌が好きでも
御心がなければ能力にも限界があるというものです。
芸能人のようにインスタグラマーになってみても、
御心から外れた、ただの承認欲求であったり。
自分の意志で行ないながら心の中で「主よ!主よ!」と呼んで行なうからといって、それが「主の御心」だと断定するな。‐本当に主の御心なのかどうか確認し、主と交通しながらやっているのかどうか確認し、主の考えどおりにやっていると言いながら実際は自分が頭になって生きているのかどうか、本当に主が頭になって生きているのかどうか、必ず自分の考えと行ないと生を点検し、確認し、行ないなさい。
これを完全にできずに行なったら「はぐれて外れた矢」のようになって、すべての労苦が無駄だ。
「はぐれて外れた矢」のようにならないために、いつも神様に御心を尋ねていきたいですね。
少なくとも摂理にくる前は、
矢をはずしまくっていた私です。
2017年1月9日 摂理・箴言の御言葉