罪の代価は死だ。
悔い改めさせて平和になさった神様
ローマ人への手紙6章23節
摂理に来て、自分が変化したことのひとつは、平和のために祈るようになったことでした。
平和について、座学や実践を通して、これまで色々と学んではきましたが、「平和のための祈り」についてきちんと教えてくれたのは、鄭明析先生が初めてだったと思います。
鄭明析先生も、ベトナム戦争に徴兵され、何度も死と隣り合わせになった経験をされていらっしゃるから、戦争がどのようにして引き起こされるのか、また戦争状態がどのようなものかを、身をもって私たちに語って下さることがあります。
戦争を経験したことのある人だけが戦争の恐怖を骨身にしみるほど分かります。
<戦争が起ころうとする時>と<戦争が起こった時>とは、状況が違います。
<ナイフで刺そうとする時>と<ナイフで刺した後>とは状況が違うように、違います。
戦争の原因は色々あるけれど、ひとつに民族的・国家的な「罪」の問題があるのだと御言葉では伝えられます。
神様を忘れ、私利私欲のために生きたり、人の命を奪ったり、何かに中毒になったり、性的に乱れていたり…
毎日の新聞を読むだけでも、心のあり方次第で止められるのに止められない、人間として犯している「罪」があまりに多いと感じます。
だから、この「罪」に対していつも関心を払い、祈りなさいとおっしゃいます。
それは、縮小すると個人にも言えることだから、根本的には、Solにとって自分自身を見つめる作業だったりもします。
<罪>は「悔い改め」でなくさなければなりません。
<罪>のせいでその代価として裁きも受け、戦争も起こり、災害が起こります。
日本にいると、断片的な韓国の情報しか入ってこない為、なかなかリアルに感じられないのですが、韓国では8月に「北朝鮮と戦争直前の状態」になっていたようです。
鄭明析先生も祈られ、結果的に戦争状態には至りませんでしたが、今の日本の現状も俯瞰してみると、あまりに祈ることが多いような気がします。
引用:主日の御言葉より