ねじれる胃腸炎になり、孤独病にかかったSol。
「胃にやさしい何か美味しいものを食べさせてほしい・・」
恥ずかしながら、こんなことばかり考えていたと思います。
カッコ悪いと思いつつ、力をふりしぼり、
親友のLunaに電話をしてみるものの仕事中で出られず、
気づいてほしい人にさりげなく投げたメールはあまり相手にされず、
気分はズーン。
夜に御言葉を聞いて少し元気になったところで、異変を察知したLunaが「何だかかけたほうがいい気がしてかけてみた、大丈夫?」と電話をくれて、思わず涙がポロリ。
最近悩んでいたことも打ち明けることができて、お祈りもしてもらい、気持ちがとてもラクになりました。
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このことから感じたのが、
人は孤独になると必ず何かしら「ヘルプ」のサインを発すること、
そして「その時」につかまなければどんどん落ちていってしまうということ でした。
自分の恋人が深い水に溺れた。人は水に沈んだら、また上がる。
<一回目>浮いて上がってきたけれどもまた沈み、最後に<二回目>また浮いて上がってきてまた沈んだら、その時は「もう救う機会」がない。
<二回目>が「最後の機会」だ。
遠隔地で誰も話し相手がいなくて、
自分からもう電話をする気も起こらなくて
負のスパイラル
孤独チーン な状況を
つかんでくれたのは、神様の存在(御言葉)とLunaだったわけですが、もしこれが深刻なうつ病や精神的な病だったら、手遅れだったかもしれないし、このようにして、日本の至るところで孤独の病が起こっているのだろうと、直感的に感じざるを得ませんでした。
「この時に救えなかったら終わる」と思って、<自分の肉>が気を引き締め、心と思いと命を尽くしてやらなければならない。
正直、メールの限界、電話の限界も今回感じ、よほど強い信仰でもなければ「会う」ことでしか救われないことがあるのだということも、容易に想像ができました。
だからもし「孤独」を感じる人がいるならば、
「信仰」という確信できる拠り所の価値を
このブログから見出してもらえたら嬉しいです。
参考:2016年6月11日 主日の御言葉