「遠慮」するのは愛じゃない

牧会者の方と話すときに緊張することがあります(*_*)

牧会者の方が威圧的とかどうというわけでは全くなく
日曜日しか教会に行っていないこともあるせいか
なんか遠慮がちによそよそしくなってしまう自分がいたりするんですよね。

今日は、約1ヶ月ぶりのお打ち合わせ。

色々と胸の内を話してくださったのですが

やはり緊張?して何だか自分残念な感じ…(TuT)

このように

天に対してもどこかよそよそしくしていないだろうか?
そのように考えさせられました。

牧師さんはおっしゃいました。

申し訳ないから
大変そうだから
疲れているから

それで何も表現しないならそれだけの関係。
人間的な「遠慮」は、いらないよ。
日本人は言わないことがいいと思われがちだけど、
「遠慮」するのは愛じゃない。
摂理はそういうところじゃない。

こちらが思ってる以上に
牧師さんは一人一人と話したいと思ってるのだなと。

かといって、むやみに話しかけたりお願いするのも違いますし、その境目が本当に難しいですね。
相手の立場を分かるって簡単なことじゃないです。

でもそのように、神様の立場も分かって、
願うものとは違うものを準備してしまうことがないように、「中心」と関わっていきたいと思いました。

ABOUTこの記事をかいた人

キリスト教福音宣教会(通称:摂理)のブロガー。普段は総合職で海外とつながるお仕事。女性の社会進出に興味有。漫画を描いたり写真を撮ったり泳いだり、多趣味極まりない感じで、色んなものが飛び出します。