真心を込めるということは、それだけの苦労と努力が入っていることをいう。すなわち、心と思いと命を尽くすということだ。言い換えると、切実に行うということだ。
教会では、真心がとても大事にされます。
プレゼントをあげたり、
神様の仕事をしたり、
全てにおいて必要なのは、
形式ではなくこの真心。
時間がなかったり、
心のゆとりがなかったり、
目の前のことに忙しいと、
つい手短に済ましてしまったり、
簡単な方法を探してしてしまうことがあります。
必要以上に手間暇かける必要はないけれど、
でも真心を込めた分、相手にも伝わるというもの。
だからこそ、制約のハードルを乗り越えた真心は、
とびきりのプレゼントとして相手に伝わると思うのです。
教会の兄弟姉妹はそんなことを教えてくれます。
実践の年に実践の根本となることがあるが、真心だ。
(…)真心を込めて行ったことは完全に行ったことで、これは実践したことを言う。
だから何をするにしても、全ての真心で行いなさい。
そうしてこそ完全な実践になるから、それによって得るべきものを得るようになる。
「真心をこめる」とはよく言うけれど、
なんとなく「嬉しい心でする」とか「気持ちをこめる」とかやんわりしたイメージがありました。
でも根本は「切実さ」なんですね。
切実さの現れとなるのが、真心だ。
すなわち切実に行うから、
何をするにしても全ての真心を注ぐしかないのだ。
これはそれだけ切実だということだ。
その切実さがある人は、何をするにしても真心を込めて行う。
すなわち瑕なく最善を尽くすということだ。
だからそのような精神を通して完全になるのだ。
このようなわけだから、完全な神様と通じるようになる。
確かに、真心があふれた状態って、何かしら切実な思いでやっていることが多いです。
最近は、ちょっと体調が優れなかったけれど、対話したメンバーが「本当に癒された」と言ってくれて、時間を出して良かったと思ったり。
プレゼントひとつにしても、
目的は喜んで力を受けてもらうことだから、
それは言いかえると「この人にこうなってほしいな。それによってまわりの雰囲気もよくなるといいな。」という切実さだと言えるのかもしれません。
あなたたち摂理人の中でも
仲むつまじく過ごすことができる秘訣があるが、
それは互いに対する真心だ。
つまり、片方の一方的な真心ではなく、
互いに相手に対して真心を注がなければならない。
そうしてこそ、それによって互いの心の門が開いて和睦を成す。
「実践」の根本はまさにこの「真心」なのだといいます。
言いかえるなら「形式」は、
切実さがない状態なのでしょう。
「真心」で行なっているのか
「形式」で行なっているのか
「切実さ」をもって点検していきたいです。
2017.3.2 摂理の御言葉:「何をするにしても真心を込めてしなさい。そうしてこそ完全に最後までできる。」