月明洞が素晴らしいのは、ただ神様の構想でつくられていること。
岩1つにしても、芝生にしても、野心作にしても、作品ひとつひとつの背景には、
鄭明析(チョンミョンソク)先生が「自分はこのようにつくりたい」といってつくったというよりは、
「神様はこのようにつくりなさいとおっしゃった」という経緯でつくられているのが、
世の中の作品との大きな違いだと思います。
先日、紹介させていただいた滝の造形も、鄭明析先生が何年も祈り求めて実現したものでした。
だから、専門家でもほとんど用いない手法が生まれたのだと思います。
芸術にしても、描かれるのはひたすら霊感を受けて描かれた「神様の考え」。
そこに「自分はこれを描きたい」や、「こう描いたら人は見てくれる」といった、自分や他人を意識する「考え」はありません。
「自分を捨てる」
「心を空ける」
鄭明析先生は、いつもこの精神で、ただ神様の身体となって、多くのものを残されていらしゃるのだなと、今回の訪問で深く感じるしかありませんでした。
構想を与えるから
考えを深くしなさい
そうすれば
天が与えようとする
構想を受けるようになる
Solも、さまざまなものを「つくる」上で、どのようにつくりあげてゆけばいいのかということを最近悩みながらもずっと考えていたのですが、月明洞に行き、その「答え」を神様が教えて下さったような気がしています。
「神様の構想で」というのは、頭では理解していても、自分が実践できていなければ悟っていないことと同じだという、当たり前の事実に改めて気づかされました。
摂理の御言葉は、実践の次元が悟りの次元なのです。
月明洞から、またひとつ、神様の精神を学びました。